死神にちなんで、「死生観」を語っていただきました。

都築草太

死んだ後なんかあって欲しいなと思います。霊にしろ天国にしろ地獄にしろ。あとは世界について知れたら嬉しいですね。宇宙とか海とか。あとは海の民とか暗黒時代とかの歴史について知りたいです。予定説の真相なんかも気になります。

生きている間は楽しくいきたいです。できれば、お金とか権力とかそういう煩わしいものが一切ない世界に生まれたかったです。ポストアポカリプス的な世界にならないかなとかはずっと思ってたりしてます。急に怪獣とかがいろいろ破壊したりしたら面白いですね。

まぁ、そんなことは起きないですし、そうそううまくはいかないものですよね。なにはともあれ、笑って話せる思い出で人生を埋めていきたいです。

谷山笑
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大学生になった。「やりたいこと」より「やらないこと」に目が向くようになった。


世の中の行為、分野、あるいは人生の進路...... 各自に特有の世界観があり、各自特有の知識なり苦楽なり があるはずだ(と信ずる)。限られた人生、そういくつも世界に股をかけるわけにはいかないが、なんとも諦めをつ けるのに手こずる。別の言い方では、己の見聞きするところ、得知れぬ空白たるや耐え難し。

「なぜそれもあれもやりたいのか」と訊かれたりすることも多々あるが、こういう問いに対する答えが中々得たく ても得られない。とりあえず、「それもあれも以外」に関してはやらないことに決めたんです、と返すのが精一杯。 大学生になって、人並みに就職とか大学院進学とか将来の進路についてあれこれ思いを馳せたりもする。しかし、なるほどやりたいことがいくらあっても、やろうとすることがないのだから、時間だけが過ぎていくのも道理である。

閑話休題。さて、今回の文章では死生観を語るということになっているとのことだ。将来を見据えながらやりたいこと、やることを考えるというのであれば、たかだか数年後のことを考えるのも程々にして、老後やいざ死ぬときのことを考えてみるのが良いと思った。大人になるとは可能性を狭めることだとつねづね思う。「可能性」が狭 まって行き着いた先、それはまさしく「確定した」存在に違いない。翻って私の死後の事績とはどうなるか?ということを思いつくまま試しに適当に考えてみた。ええと......

「学生時代は演劇サークルで照明をやり、軽音サークルでエレキギターをやり、数学とヒンディー語の勉強を頑張ろうとするがこれは挫折し、まあまあ大きい企業に勤め、出世し、よい結婚相手を職場で見つけ、後は今度は趣味でコーヒーと中華料理とサボテンにこだわり、老後はアルバイトとボランティアに勤しむ......」

......このくらいでやめておく。己の想像力の貧しさ、人生や実社会に対する解像度の低さは置いておくとして、では、例えば、世界に名を残した歴史上の人物の説明はどうか?

「ガイウス・ユリウス・カエサル (ラテン語: Gaius lulius Caesar、Julius とも、紀元前 100 年-紀元前 44 年 3 月 15 日)は、共和政ローマ末期の政務官であり、文筆家。「賽は投げられた」 (alea jacta est)、「来た、見た、勝った」 (veni, vidi, vici)、「ブルータス、お前もか」 (et tu, Brute?) などの特徴的な引用句でも知られる。また彼が布告し彼の名が冠された暦(ユリウス暦)は、紀元前 45 年から 1582 年まで1600 年間以上に渡り欧州のほぼ全域で使用され続けた」

ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典

両者を比較して、気づいた。死後の自分がどのような扱われ方をするか、ということに対する解像度があまり にも低すぎるのではないか、ということに。このままでは功績らしい功績がなせないままだ、とか、何か、何でも、 何かしら、名言を残さなければ、ということを実感したのとは(少し)違う。もし功績や名言を残したいのであればどう生きたいか、ということ、あるいは功績や名言を残せないのであればどう生きるのが良いのか、とかそういうことに無頓着だった。数年後のことは考える割に無頓着だった。仮に今死のうものなら、世の中に残るのは精々このふざけた伝記の一文ぐらいになってしまう。凡百な結論になってしまったが、何はともあれ危機感を新たにする。

今度こそ、閑話休題。この公演が、NF にご来場の皆様に楽しんでいただけるものになるよう、誠心誠意取り組んで参ります。よろしくお願いいたします!

宮内将大
宮城萌絵

ご飯が美味しけりゃ幸せで、適度に運動したり人と話したり笑ったり泣いたり、頑張ったり怠けたりしながら生きていて、そんな自分を好きでいれたら人生なんてそれだけで良いのかもしれない、とかね、そう思うんです。

「私は私を認めて、どんな自分でも好きでい続ける」という自分ルールが守れなくなったとき、きっと私の何割かは死んでしまうだろうと思っています。どんな自分にも認めてもらえるように程よく頑張って生きていこうね、というのが私の死生観です。

長谷川真優
吉田小夏

死んだらその先どうなるかということは考えだすと夜も眠れないどころか一日中何も手につかなくなるので、死にまつわることは一切考えないようにしています。いつか死ぬことを気にしていてもしていなくても、いつか死ぬことに変わりはないので、それなら気にしていない人生のほうが幸せだと思います。終わりを見据えて諦観するのではなく常に自分が夢中になれるものを見つけて目の前のことに打ち込んでいきたいし、自分が作るものが誰かにとってそういう存在になれたら良いなと夢見ています。